まだ1年半

長いです。いつも以上にとっても長いので、気が向いた人だけよかったら読んでください。


思い立ってロゴマークのデザイン修正をしていて、ふとオープンしたの去年なんやなぁって。

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自分の中では既に2〜3年はゆうに経ってる感覚やったので、1年半しか経ってないという事実にびっくりしました。

それだけ充実していたというか、1年半に色々とギュッと詰め込まれてたんでしょうね。
特にこの半年での動きは自分でもかなり目覚ましいものやったと感じています。

ホームページを作ってた頃は泣きそうになってたパソコン作業も、パッケージのデザインを自分で考えたり、箱まで作れるようになって、自らデザイン修正しようとまで思えるようになって、ネット販売も出来て、月一パンとお菓子屋はようやく定着しつつあるし、イベントをやるって言ったらお客様からの反応がすぐに返ってくる。

何をもって成功かっていうのは人によって違うと思うけど、ひのとは成功か失敗かで言ったら間違いなく成功で、どんどん楽しくなってきてるって事はきっと間違った方向には進んでいないんやと思います。

前にひのとはリハビリ施設みたいなもの…って書いた事があるけど、リハビリももぅ終わりですね。

『ひのと(丁)の性質を持つ、自分そのものを表現できる場所にしたい』と願って名付けた、私の分身のようなお店。

自分の成長と共にお店も成長する、とても良い関係を保てています。

お店や作品を褒めてもらえると自分も心から嬉しいのです。これってごく当たり前の事やけど案外難しい事なんですよ。

何かしら経営をされている方なら、もしかしたら共感してもらえるやも分からないですが、お店と自分が一体化していない、自分が本当にやりたい事が出来ていない、日々の業務に追われて成長する気にもなれない、どこか他人事のようになる…その状態でお店や作品を褒められても、嬉しいけど…って否定の言葉がくっついちゃうんです。

ひのとを開店するに当たって、出来る部分は全て自分でやると決めました。それは人を信用していないからとかではなくて、自分の創り出すものに責任を持ちたかったから。人のせいにせず、全て自分のせいにして、言い逃れできないようにしたんです。お店の評価=自分への直の評価です。

それまで、何かにつけて人のせいにして逃げてきた分、不安で怖くて、ものすごく大変でしんどくて。それまでの自分を怨みましたね…

自分でやろうとすると、出来ない事がたくさん出てきて、カッコ悪い自分もいっぱい見えてくるんです。何のプライドか、出来ない自分を人に見られるのが嫌な自分にとっては拷問みたいなもんです。

でもそのおかげで、自分でできる部分、人に頼るべき部分の区別がはっきりつくようになって、自分自身もようやく化けの皮が剥がれて「自分こんなんですけど、まぁ良かったら仲良ぅしたってくださいな」くらいの飾らないスタンスで生きれるようになりました。

それっていうのは、カッコ悪い部分を曝け出しても、何故か応援してくれる人がいて、頼れる人がいて、認めてくれる人がいたからこそなんですよね。

ひのとをやり出してから感謝をする事が増えました。
何を綺麗事を…と思われるかもしれないけど、自分が今の位置に立てているのは、家族、友人、お客様含め、周りにいてくれた人達のお陰やと心から思っています。

お店=自分やからこそ、より良いものにしていかないといけないと思うし、もっともっと成長させていきたいと思っています。

目下の目標は、誰かがひのとのお菓子を誰かにあげたとして、ロゴを見ただけで「あ、ひのとのお菓子やん!」て言ってもらえるくらいになる事。そして欲を言うなら「ひのとのお菓子やん!めっちゃ嬉しい!」って言ってもらえるようになる事。

今後ともどうぞ温かく見守って頂けると幸いです。






しゃあない

最近、『しゃあない』って言葉を多用している自分に気がついて。これは自分にとってはとても良い傾向なんじゃないかと思っているのです。

しゃあないって思うのは、目の前に起こっている事象をとりあえず認識して受け止めてるって事やから。
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何のために生まれたのか?とかって、なんとなく難しそうで、なかなか答え辛い疑問やけど、私の中での今の時点での見解は、『何かを学ぶため』って事になってます。

その何かっていうのは、世の中の真理やったり、人として大切な事やったり、色々やと思うのですが、例えば人生そのものが学校やと考えたら、私は今32年生で、32年生で学ぶべき教材、教科書が現実に起こっている事象って事になって、たまに起こる試練的なものが、学校でいう試験って事になって。大きな試練は受験的な立ち位置ですよね。

学校では真剣に学ぶ気があれば、試験で良い結果がとれて、学ぶ気がなければ留年するわけですが、それと同じように、人生でも学ぶ気があればどんどん良い結果が出て、学ぶ気がなければずっと成長できずに一定のレベルで止まる。
試験で良い点数をとれば合格できて、それと同じように試練を乗り越えたら1つ上の自分になれて…

ただそれだけの事なんやと思っています。

だから、目の前に起こる現象は、良い事でも悪い事でも全てそこから何かを学ぶ為に起こっていて、良い結果が欲しいのであればしっかりと問題文を読んで、考えて、対処して、答えを出さないといけない。

答えが解ったなら解答用紙にちゃんと記入するという行動を起こさないといけない。解っていたの行動に移さなかったっていうのは、ただのアホって言われてしまうから。

そういう風に考えてると、なんとなく頑張れるようになるんです。じゃあ学べるだけ学んで、なんやったら飛び級できるくらい頑張ってやろうかって。

神様は、ちょっと頑張らないと難しいかなっていう問題を出してきます。でも頑張れば解ける問題ばっかなんです。
気分的に解きたくない時もあるけど、結局は解かないと昇級できないですから。

何の為に勉強してんのか分からない大学受験より、人生のお勉強の方が断然やり甲斐があるし楽しい。





相談に乗る

最近、友達の相談に乗るという機会を頂いて、色々とアドバイスとか、自分の経験談とかをツラツラと語っていたのですが、語彙力のなさと、良い比喩表現が思い付かない等々、自分の不甲斐なさを逆に痛感して落ち込みました。
私の拙いアドバイスの中で何かしら胸に残るというか、引っかかってくれるものがあったらいいな…とは思ってますが、それ以前に日本語として成り立ってたんやろか、伝わったんやろか…と。
まぁ伝えたいっていう熱意だけは伝わってくれたんじゃなかろうか…。
それと同時に、そういう風な人に対するアドバイスっていうのは、相談してくれる人に対してっていうのもあるけど、結局の所は自分に言い聞かせてるんやろなっていうのも感じました。


世の中の出来事とか、出会う人とかって全てベストなタイミングで自分の目の前に現れて、何かしら気付きであったり、学びであったりをくれて…
どんな辛い事とかからも何かしら学ぶ事は出来るし、その都度対処していって、それでいて何かしらを学び終えたら、その辛い事は勝手に去って行く。

それさえきちんと解っていれば、どんな事でも冷静に受け止められて、冷静に対処できるのかなと思っています。

だから過去の事を引き摺ったり、未来の事を心配したりして、今目の前にある対処すべき物が見えないっていうのはあまり良いとは言えなくて、目の前の事以外に悩んで時間を取られるっていうのはとても時間が勿体無い気がするのです。特に目の前に良い事が転がってるのにそれに目がいかないっていうのは物凄くもったいない…。

私はこれを最近ようやっと体得したような感じで、近頃はとんと思い悩むって事がなくなったのですが、(そら日々悩む事もいっぱいありますが、感情の起伏は30分以内に留めるって事を決めたので感情が落ちて負のループにハマる…みたいな事がなくなったって事です)泥沼状態になってた時期っていうのは過去に経験したし、そらもぅ、死にたくなるくらいしんどかったので、何とかその時の経験から悩んでいる友人に何かしらアドバイス出来たらなぁ…と思って、当時私が誰かにして貰いたかった事、かけて欲しかった言葉などを思い出そうとしたのですが、これが見事に全然思い出せなくて…。

喉元過ぎれば熱さ忘れるとは正にこの事で、泥沼状態の悩みでも、数年後には忘れてしまうくらい勝手に何とかなってるもんで…。

人によって悩んでる時に欲しい言葉とか態度は違ってくるし、やっぱり人の痛みっていうのはその人にしか解らないし、結局、最後の最後は自分の力で抜け出すしかないので、あの時自分がこぅやったから…っていう感覚で決めつけるのはよろしくないし、つまるところ相談に乗るっていうのは、
〝その人の悩んでる原因が何なのかを客観視して明確にすることと、複雑ならばそれを単純化させるお手伝いをする〟
〝私の場合はこうする、とか、こうだった…とか例を挙げる事でヒントを与えて、何かしら自分なりの解決策を見出してもらう手がかりにしてもらう〟

この2つに限るなって思いました。
その人の感情とか想いとかがどの程度の物かをこちら側が勝手に決めつけてもいけないし、こちら側の感覚を押し付けてもいけない。

これは相談される時とかそうでない時関わらず、人と接する上で常に気をつけとかなあかんなって思いました。良い勉強になりました。
そしてもっと語彙力をつけていこうと心に誓った今日この頃でした。